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「マニアの至福」第6回

73年9月、はっぴいえんど
「ラストタイムアラウンド」-2-

僕が「はっぴいえんど」をはじめて聴いたのは、1971年の春のことです。S市の大学を受験したものの不合格で浪人生活が始まろうとしていた頃、同じく浪人が決まった友人の家で麻雀をしているときに聴いたのです。ファーストアルバムにあたる「はっぴいえんど」です。
 当然1曲目の「春よ来い」から聴いたのですが、手造りに夢中だったせいもあり歌詞が歌われ始めても何を言っているのかよく聞き取れず(アメリカのロックバンドの曲かな)ぐらいの気持ちでいました。どうやら日本語で歌われているらしいと思い始めたのは「ひとりぼっち」なる言葉がファズのきいたギターの隙間からかろうじて聞き取れたときです。
「これ、誰?」と僕が尋ねると「ハッピーエンド、岡林のバックバンド」と友人が答えました。
岡林とは岡林信康のことであり僕は「友よ」や「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」といったフォークソングを歌う歌手として知っていました。しかし、それらの歌は集会で友人達によって歌われるのを聴いただけで、岡林のレコードは一度も聞いたことがありません。
 フォークソングと言われるものでは、それまでに一度「×××赤い××」の実況録音なるアルバムを聴かされたことがありました。しかし「これが日本だ ぼくらの国だ」などと歌うのです。同じ歌が反戦集会でも歌われます。国家を否定する人たちの口から「これが日本だ ぼくらの国だ」なる言葉が発っせられるのです。
 僕はベ平連の集会に参加することはあっても、一緒に歌うことはありませんでした。
----所詮、歌は歌でしかないのに、こいつら、歌うことが戦うことだと思ってやがる。歌うことで連帯しようなんて思っている。なんて○○(2文字自粛)な奴等なんだ----と常々僕は思っていました。
 そういった理由で僕は日本のフォークなど聞く気にもなれませんでした。集会に顔を出しても、いつもつまらなさそうにビラを眺め一緒に歌うでもない僕には「陰気」「虚無」「いじけ」なる形容がついていました。

 しかし、今聴いている「ハッピーエンド」の音はフォークシンガーのバックバンドの音としては、あまりにも異質です。なんとも言いようのない形容しがたい音楽、しかし紛れもなくロックです。
 2曲目が始まりました。曲のメリハリというものを全く無視した、何か得体の知れない鬱屈がぶら下がっているようなイントロに続き、感情の起伏を無理にでも押さえ込もうとでもするかのように抑揚を持たせないボーカルが延々と続きます。日陰で増殖するモヤシような陰鬱なギターの音と、ここぞとばかり裏を叩くドラム。その隙間にもぐり込み時たま弾けるベース。パートそれぞれがお互いの存在を無視しひたすら個の孤独な作業に打ち込んでいるようで、しかし時に共振しあっています。ここには反戦も連帯も存在しません。存在するのは私と垣間みれる君。
 曲の後半「私は熱いお茶を飲んでいる」と日本語で反芻するに至りこれは僕のための歌だと思いました。「かくれんぼ」では「私たち」とか「僕ら」といった複数の一人称から解放され、私のみが歌われています。言葉は自己の内側へと向けられ、他人へのメッセージは皆無です。
このことを意識した刹那「ハッピーエンド」が「はっぴいえんど」となって僕の中に沈澱したのでした。
 *     *     *     *    *
 「はっぴいえんど」は「日本語ロック」の創始者として、内田裕也一派との対極と位置づけられることになるのですが、僕は「はっぴいえんど」は反戦とか連帯とかいった陳腐な言葉を並べたてていた「当時の日本のフォーク」の対極としてこそ位置づけられるべきだと思っております。

(裕也一派は、勝手に「岡林」も「はっぴいえんど」もひとからげにして敵と見なしたのでしょう。------1971年4月5日に「ニューミュージック・マガジン」編集長・中村とうよう宅で『日本のロック情況はどこまで来たか』と題された、世に言う「日本語ロック論争」が展開されました。論争の内容を読みたい方は、[こちら]をクリックして下さい。artmaniaホームページ上の「日本語ロックの生き証人〜1971年(いわゆる、日本語ロック論争)」にジャンプします)

(97年3月18日記・以下次回)

-第6回 了-

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