===日本語ロックの生き証人===

はじめに・・・

 私は「日本語ロック」が好きで現在までずうっと「日本語ロック」を聞き続けて参りました。
ところで1994年に、香港のポップスが好きだという人に知り合い、その人が主宰していたある雑誌を手渡され、なんか書いて下さいと言われたのです。
で、香港のロックの事を書いてもいいけれど、広東語を作字するのがお互いたいへんだなあなどと思い、じゃあ日本語ロックの歴史を書きましょうと、連載を始めたのでした。
 遅筆にして3年1997年に、連載はそれでも大団円(はっぴいえんど)を迎えました。
 このページの最後までお読みいただければ、日本語ロックの歴史がひととおり把握できます。そして世にいう「日本語ロック論争」についてもお分かりいただけることと思います。
 ご一読いただければ幸いです。
尚、ご感想はこちらまで
artmania@air.linkclub.or.jp


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日本語ロックの生き証人 序章


 早川義夫が1994年に、25年ぶりとなるソロアルバムを発表したことに驚いたが、原正孝の16ミリ映画「自己表出史」早川義夫編がビデオになって発売されていることにはもっと驚いた。私はこの映画を1971年の夏、仙台の公会堂の小ホールで観た。26年前のことだ。映画の上映会なのに何故かテーブルには灰皿がぽつりぽつりと設置されている。100人も入れば満員の会場で、寄り掛かる度にギイギイ軋むパイプ椅子に凭れ上映を待つ。
 数人ずつ寄り添い着席する観客の顔を凝視すれば、列のなか一人、二人と見覚えがある。集会や隊列で見知った顔だ。
 始まれば、禁煙の表示が霞むぐらいに煙草の紫苑が幾筋ものぼり、何度かプロジェクターが停止する。時に上映スクリーンにフィルム巻を入れ替える人影が投影される。空調が時にうなり、プロジェクターが同調する。
 「自己表出史」早川義夫編は、1969年の早川義夫の姿とともに、1969年の東京も描写していた。東京それ自体が私の憧れだった。ロックも闘争の逃走も東京にあった。
 私のなかで「自己表出史」早川義夫編は自主上映との言葉とともに小ホールで公開され、その場に居合わせた人たちのみの、密やかな楽しみとして存在する作品として沈殿している。同時に上映された同監督作品の「おかしさに彩られた悲しみのバラード」や「東京戦争戦後秘話・予告編」にも同じことが言えた。
 しかし、今その「自己表出史」がビデオとなってこの世に存在している。この作品を、はじめて家庭のビデオデッキを介して観る人たちに原正孝の作品や早川義夫の結成したジャックスについて、あるいは、当時の日本のロックシーン、とりわけ英語で歌うか日本語でロックをやるかと言った論争がその後展開されたことを伝えるのは、年寄りの使命であり同時に楽しみにも思われる。


 1971年当時私は18歳で、大学受験に失敗した浪人生であったが、進学に身をやつすことよりも映画や音楽、それも実験映画や日本のロック、とりわけ日本語のロックに身を投じていた。何故、身を投じていたかというと、内田裕也に代表される、ロックンロール馬鹿!がフラワー・トラヴェリン・バンドなるエセロックを全面に産音共同体制強化をはかり、日本のロックシーンを英語崇拝ロックインターナショナル成功至上主義に転化せしめようとしていたからだ。
 それに唯一対抗できるのは日本語のロックしかなかった。それにしても何故、内田裕也一派は英語で歌うことにこだわり続けていたのか? 日本のロック史を明確に把握するために、1960年代に時間を遡って話を始める。


1964年-1966年(いわば日本語ロックの前史)

1964年3月、坂本九の「スキヤキ」(邦題=上を向いて歩こう)が全米ヒットパレードで4週連続1位を記録していた頃、東京ビートルズが結成された。もちろん4人組。デビューシングルは「抱きしめたい」「プリーズ・プリーズ・ミー」のカップリング盤。どちらもビートルズの原曲を基に日本語の歌詞が施されている。例えばこうだ。「オープリーズ お前を 抱きしめたい 判る この気持ち I wanna hold your hand I wanna hold your hand I wanna hold your hand」(抱きしめたい・漣健児作詩)。「やさしさをかくしていつも冷たいけど カムオン /\ /\ /\ カムオン /\ /\ /\ プリーズ・プリーズ・ミー オーヤー ライク アイ プリーズ ユー」(プリーズ・プリーズ・ミー・漣健児作詩)。英語の歌詞は添え物でしかなく、それもカタカナ発音で歌われた。
 翌65年には田辺昭知、かまやつひろし、境正章、井上順などによってスパイダースが結成される。これと前後して、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ヴィレッジ・シンガーズ、ワイルド・ワンズなどが次々とデビュー。彼らは殆んどの曲を日本語で歌った。
 そして、1966年6月ビートルズが来日、読売新聞社の主催のもと日本武道館で5回の公演を行う。公演の合間に面会を許された加山雄三はビートルズのメンバー4人を前に胸を張り、信じられない発言をした。
「ヘイ、ポール、ジョン、ジョージ、そしてリンゴ。君たちに素晴らしいプレゼントを差し上げましょう」ヒルトンホテルでの謁見を許された加山雄三はスパイダースのLPを手にこう言った。「スパイダースは日本のビートルズです」
 加山雄三が手にしていた「スパイダース・セカンド・アルバム」は全12曲が総てカバーバージョン。B面はアニマルズやチャックベリー、ピーターポールアンドマリーなどのカバー、そしてA面の6曲はビートルズの曲(1)ミッシェル、2)恋を抱きしめよう、3)イエスタディ、4)恋のアドバイス、5)悲しみはぶっとばせ、6)ツイスト・アンド・シャウト)で占められていた。加山雄三の考える日本のビートルズとは、ビートルズの曲を演奏している日本のバンドのことであった。
 その点では、アルバムの半分をビートルズの曲でカバーしたスパイーダースは「日本のビートルズ」にふさわしいバンドと言えた。
 しかし、当のビートルズがすでにレコーディングを終了し、ヒルトンホテルで命名されたアルバム「REVOLVER(66年8月イギリス発売)」は、それまでに制作されたビートルズのアルバムとはかけ離れたサウンドで構成されていた。多重録音、テープの逆回転、サウンドエフェクトの多用、ブラスセクション導入、等々。
 スパイダースの面々、とりわけ、かまやつひろしは「REVOLVER」に接し、もうカバーできる範疇にはない、と悟ったに違いない。以降にスパイダースがビートルズを新しくカバーした曲でアルバムに収められているのは、「デイ・トリッパー(スパイーダースNo.5 /68年5月発売)」1曲のみとなる。
 しかし、ビートルズをカバーした事とは全く無関係に、スパイダースは人気を博す。「夕陽が泣いている(66年10月発売)」「なんとなくなんとなく(67年1月発売)」「風が泣いている(67年7月発売)」と発売されたシングルが矢継ぎ早にヒットしたからだ。それは、世に言うグループサウンズ時代の到来でもあった。
 


1967年(グループサウンズの時代)


 67年3月に発売されたジャッキー吉川とブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ(橋本淳作詞 井上忠夫作曲)」が日本レコード大賞を受賞する。
 この年、橋本淳は作曲家のすぎやまこういちと組みタイガースのデビュー曲「僕のマリー(67年2月発売)」にはじまり「シーサイド・バウンド(同年6月発売)」「モナリザの微笑(同年8月発売)」も手がける。このコンビのタイガースのヒット曲は翌68年の「君だけに愛を(1月発売)」「銀河のロマンス(3月発売)」まで続く。
 ヴィレッジ・シンガーズは、3枚目のシングル「バラ色の雲(67年8月発売 橋本淳作詞、筒美京平作曲)」によって脚光を浴びる。
 ショーケンこと萩原健一を擁するテンプターズはリードギターの松崎由治の作詞作曲による「忘れ得ぬ君」で67年11月デビュー。つづく「神様お願い(68年4月発売)」も松崎由治の手による。3枚目の大ヒット「エメラルドの伝説」はなかにし礼作詞 村井邦彦作曲だった。
 ワイルド・ワンズは66年11月に彼ら自身の手による「想い出の渚(鳥塚繁樹作詞 加瀬邦彦作曲)」でデビュー。大ヒットとなる。
 しかし洋楽ファンは「想い出の渚」のメロディがベンチャーズの「ブルースター」と酷似していることに気づいていた。
 スパイダースの大ヒット曲「夕陽が泣いている」「風が泣いている」は浜口庫之助作詞作曲であり「なんとなくなんとなく」はかまやつひろしの作品であった。
 後の、かまやつひろし作曲のスパイダースのヒット曲「黒ゆりの詩(68年9月発売)」や「エレクトリックあばあちゃん(70年10月発売)」はメロディがそれぞれ、アメリカのアソシエーションの「チェリッシュ」やジャーンとディーンの「パサディナのおばあちゃん」と酷似していた。
グループサウンズは、大ヒット曲のほとんどが日本の歌謡曲界のヒットメーカーの手によるものであり、また、海外のヒットソングを剽窃したものともいえた。
 しかし、ヒットには至らなかったグループサウンズの中で、日本語のロックが起こりつつあった。

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1968年(日本語ロックの黎明)


 テンプターズの「神様お願い」やタイガースの「銀河のロマンス」の発売を前にした1968年2月、ザ・フローラルというバンドが結成された。
 当時18歳から22歳の私立大学生で構成されていた5人組のこのバンド。メンバーは、ボーカルが小坂忠。リード・ギター、菊地英二。オルガン、サイド・ギター、ヒロ柳田。ベース・ギター、杉山喜一。ドラムス、義村康市である。それぞれがR&B、クラシックギター、ハワイアン、ビートルズ、モダンジャズなどに傾倒していたが、8月には「涙は花びら(宇野亜喜良作詞、村井邦彦作曲)c/w 水平線のバラ(山上路夫作詩、村井邦彦作曲)」でシングルデビュー。山上路夫、村井邦彦は歌謡曲界のヒットメーカーであるが、宇野亜喜良はイラストレーターとして名を馳す。このシングルはMUSICOLOR RECORDと銘打たれ、レコードジャケットと同様、メンバーのカラー写真が、サイケ調のレイアウトとともにレコード盤にも印刷されている。
 小坂忠はライナー・ノーツの中で、宇野亜喜良デザインのコスチュームについて「個性的で繊細で斬新、その感覚は僕らの目指す《音楽》に共通する…(中略)…世界の日本の若者の心をつかんで離さないに違いない。」と記す。
 それでは、その音楽はといえば、当時のグループサウンズの域をでるものではなく、それよりももっと歌謡曲に近いと言えた。
 メンバーそれぞれがグループサウンズとは無縁の音楽変遷をし結成に至ったザ・フローラル。実は彼らは、同年9月に来日公演するモンキーズとの共演のために、日本のモンキーズファンクラブがオーディションを行って作り上げたバンドなのだ。
 音楽の共通項を持たない彼らは、その後、9月にシングル「さまよう船 c/w 愛のメモリー(ともに山上路夫作詩、村井邦彦作曲)」を発表したのにとどまる。
 その後解散に至った経緯は定かではないが、翌69年9月アルバムデビューのロックバンド、エイプリル・フールのなかにザ・フローラルのメンバー複数が含まれていた。
(以下、次号)

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1969年(エイプリル・フール、日本語ロックの胎動)


 1969年9月にエイプリル・フールはアルバムデビューを果たす。メンバーは5人で、ボーカルが小坂忠。リード・ギター、菊地英二。キーボード、柳田博義(ヒロ柳田)。この3人はザ・フローラルのメンバーであり、これに、ベース・ギター、細野晴臣。ドラムス、松本零(松本隆)が加わる。
 その年の春まで、細野晴臣は柳田博義の兄・柳田優とドクターズというバンドを組み、また松本隆がリーダーのバーンズというバンドを掛け持ちしていた。
 ザ・フローラルから抜けたパートを柳田博義が、兄の人脈を頼りに補完したといえるエイプリル・フールは、アルバムデビューからおよそ半年前の4月1日(APRIL FOOL)の結成にちなんで、細野晴臣によって命名された。
 アルバム「APRYL FOOL」(ミュージカラー・レコード/YS-10068)は、全9曲からなり、BOB DYLAN作詞・作曲の「PLEDGING MY TIME」のカバーを除く8曲は、メンバー5人のオリジナルによるものである。
 松本隆を除いた、それぞれが作曲を担い、曲毎に個々の意識が反映されている。
 以下に、強引に論ずれば、菊地英二は、アイアンバタフライなどを想起させるアートロック。柳田博義は実験的セッション。細野晴臣は、バッファロースプリングフィールドといったアメリカ西海岸ロック。小坂忠はブルースロックとなる。
 作詞は、小坂忠が英語のみで自作品と細野作品の2曲を担当。松本隆は英語で小坂・細野共作に1曲、日本語で菊地作品の2曲と細野作品の1曲を担当している。
 恐らく小坂忠はなんの躊躇いもなく(ロックだからと)英語で作詞をしたのだろう。松本隆の場合、菊地作品では日本語を英訳する作業を断念したに違いない。内容が渡辺武信などの現代詩を思わせるものだからだ。半面、細野作品においては最初から日本語の作品として書かれたのであろう。
 「暗い日曜日」と題されたその詞は、未熟とはいえ一応の完成を見ている。この詞がバーンズ時代の作品であったことも、その後のエイプリル・フールの運命から察すれば興味深い。

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1970年(はっぴいえんど・日本語ロックの確定)

 大滝詠一は返事を待っていた。彼の下宿を訪れた松本零、細野晴臣の前で、先日松本零から手渡された詩にメロディーをのせ、今始めて歌ったのだが、2人とも沈黙したままだ。
 これより数カ月前、大滝はエイプリル・フールのステージを観て(ううん、ついに日本にもバニラファッジが存在したか)と思った。やがて彼らとバンドを組み作曲を担当することになった。
 彼がいま歌った詩は「かくれんぼ」だった。
 --曇った空の浅い夕暮れ雲を浮かべて煙草をふかす 
風はすっかり凪いでしまった私は熱いお茶を飲んでいる 
「君が欲しい」なんていってみて裡でそっと滑り落とす
吐息のような嘘が一枚私は熱いお茶を飲んでいる 
雪融けなんぞはなっかたのです 
歪にゆがんだ珈琲茶碗に餘った瞬間が悸いている 
私は熱いお茶を飲んでいる 
もう何も喋らないでそう黙っててくれればいいんだ 
君の言葉が聞こえないから 
雪景色は外なのです 
なかでふたりは隠れん坊 
絵に描いたような顔が笑う 
私は熱いお茶を飲んでいる-- 
 大滝は一読して思った。(これは作文だ。センテンスが長すぎる。一人称も「ぼく」や「俺」じゃなくて「私」だ。文語体だ。「です」なんて表現がロックといえるのか!)と。
 松本は折に触れ「日本語をロックのリズムと融合させる。僕らの日常を描くのに言葉が英語なんてナンセンス」と言い「聞き手が一枚の画をイメージできる作品をめざす」とも言った。しかし大滝はこの詩のどこに僕らの日常があるのか、と思った。大滝が喚起した一枚の画は「つげ義春の漫画」だった。
 彼は言葉をローマ字に直し作曲を始めた。日本語のロックを目指すとの松本との思惑とはうらはらに、日本語にこだわらないアプローチで「かくれんぼ」にメロディーがついた。
  沈黙を破り大滝は尋ねた「どう思う?」「…いいんじゃない」重い口を始めて開いたのは松本の方だった。「僕はいいけど細野さんはどう?」「うん、いいんじゃない」
 1970年を迎える頃「はっぴいえんど」は始動した。

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1971年(いわゆる、日本語ロック論争への突入)

 エイプリル・フールが結成をみた1969年4月、音楽評論家中村とうよう氏は月刊誌『ニューミュージック・マガジン(現・ミュージック・マガジン)』を創刊した。
 同誌はロックを中心に音楽を論ずる雑誌だが、歌謡曲化されたGSとは違った本当の新しいロック・ミュージックを日本に根づかせるための運動を早急に起こす必要があるとし、9月に第1回・日本ロックフェスティバルを開催。ブルース・クリエイション、パワー・ハウス、エディ藩、内田裕也とフラワーズ、ゴールデン・カップスなどが出演した。
 以来、翌年1月・5月と回を重ね、出演者の多くは欧米のロックをコピーし英語で歌った。
 またこの間、同誌はレコード賞を創設。10人の批評家の採点によって70年4月、第1回日本のロック賞金賞が日本のボブ・ディランといわれた岡林信康の「私を断罪せよ」に与えられた。(銀賞「エイプリル・フール/エイプリル・フール」、銅賞「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう/早川義夫」、以下「ぼくのそばにおいでよ/加藤和彦」、「サリー&シロー/岸部おさみ、岸部シロー」)
 皮肉なことに日本ロックフェスティバルの常連は賞にもれた。
 71年の第2回日本のロック賞金賞は「はっぴいえんど/はっぴいえんど」に輝き(銀賞「NIYAGO/遠藤賢司」、銅賞「切狂言/クニ河内」、以下「晩餐/フード・ブレイン」、「見るまえに跳べ/岡林信康」)受賞した作品の多くは、彼ら自信の作詞作曲により日本語で歌われた。
 内田裕也氏はこの結果に不満を抱いた。(なにが日本語のロックだ。ちょっと、メロディを変え、日本語の詩をつければ、それがオリジナリティなのか? ロックとは、外国のグループの感じを出すことだ。GSとは違う今までになかった新しい音楽があることを伝えることだ。俺はそう言ってやりたい。)
 1971年4月5日、内田裕也はそう言ってやるために中村とうよう宅へと向かっていた。なぜなら評論家諸氏に囲まれて、はっぴいえんどのメンバー松本隆、大滝詠一がいたからだ。
【参考文献・「爆発するロック」ブロンズ社刊 資料提供・佐藤正明氏】

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1971年4月5日(これはびっくり!日本語ロック論争の実録

 今から28年前、すなわち1971年4月5日夜、内田裕也が向かう中村とうよう宅ではすでに座談会が開催されていた。参加者は内田裕也も加えて8人。そして以下が世に言う日本語ロック論争の実録である。
   *   *   *   *   *  
 中村とうよう氏は日本のロック賞選定にあたっては、はっぴいえんどに5点満点の採点で3点を与えていた。(付記すれば4点以上の作品はなく2点を「切狂言/クニ河内」に、1点を「エニウェア/フラワー・トラベリン・バンド」に与えている)
 その中村とうようがまず口を開く。「日本のロック賞がはっぴえんどに輝いたということで、本日はメンバーの大滝詠一君と松本隆君に参加を求め『日本のロック情況はどこまで来たか』と題して座談会行うことにしました。ところで裕也氏は、はっぴいえんどに賞が行ったことがかなり気にくわないらしく、僕は会う度にからまれちゃったんだけど、ミッキーはこのレコード、どう思った?」
 ミッキー・カーティス「もう、すばらしい。ヤキモチでカッカしてるんだ。日本語で全部やったのがゴキゲンなわけ。オリジナリティに関して言えばあれを英語にしたら誰かに似てるかもしれないけど、とにかく楽しめたわけ、すごく」(尚、ミッキーは選定委員に名を連ねていない)
 中村「ずいぶん褒められちゃったけど、はっぴいえんどの二人はどう?」
 大滝・松本「……」
 中村「けなす人もあとで来るからさ、今のうちに喜んでおいた方がいいよ」
 大滝「恐縮です」
 ミッキー「なんか普段話してるような言葉がそのまま歌になって、バッチリ乗ってるってとこが、すごくいいよね」
 松本「ぼくらが日本語で歌ってるのは、曲を作るのに英語の歌詞が書けないという単純な理由なんです。日本語のせるのに苦労してるのは事実です」
----ミッキーのはっぴいえんど肯定発言に乗じて松本が発言し始めた。このままでは裕也の登場以前に日本語ロック肯定派が優位に立ってしまう。危惧を感じた裕也の僚友福田一郎が反論する。
 福田「ぼくが買ってるのは『春よ来い』1曲だけなんだ」
 小倉エージ「それはどういう点からですか」
----すかさず、小倉エージが説明を求める。彼は「はっぴいえんど」のレコーディング・ディレクターを務めていた。(彼は選定委員でもあり、はっぴいえんどには5点、「NIYAGO/遠藤賢司」に4点を与え3点以下の採点はなし)
 福田「いろいろあるけど、音のバランスにしても悪すぎるよ」
 松本「ミキシングもカッティングも悪いです」
 福田「そう、そういう点で、本当ならもっと説得力も迫力もあるはずなんだけどね」(ところで福田は選定委員として、はっぴいえんどに5点を与えていた。以下「晩餐/フード・ブレイン」4点、「サウンド・オブ・サウンド・リミテッド/猪俣猛とサウンド・リミテッド」3点、「切狂言/クニ河内」2点、「見るまえに跳べ/岡林信康」1点)
----説得力も迫力もない反論のまま日本語ロック否定派は論破されてしまうのであろうか、裕也はまだか? 
【参考文献・ミュージック・マガジン増刊スペシャル・エディション1 採点資料提供・佐藤正明氏】


----アルバム「はっぴいえんど」を巡っての討論はまだ続く。
ミッキー「全体的に日本のほかのレコードにくらべて、あれならミキシングはいいほうだけど、悪いのはカッティングだな」
福田「そういう欠点はあるけど、とにかく、日本語もロックのリズムに乗るということを証明してくれただけでもすごく大きい」
中村(大滝・松本に)やっぱり自分たちの音楽をロックだと思ってますか」
松本「思ってます。フォークじゃない。ぼくたちはずっとロックをやってきたし…。日本語がロックに乗るという自信はありましたね。まだうまくは行ってないけど…」

折田育造(はっぴいえんどは)サウンド的にはロックそのものですね。だけど言葉が聞き取りづらいという欠点もあるし、完全に日本語をロックに消化してるとはいえないだろうな。ぼくの場合はインターナショナルに成功したいという気持ちが大きいので、やっぱり英語でやりたいですね」

ミッキー「インターナショナルに成功するために英語でなきゃ、というのは裕也もいつも言ってることだけど、ぼくはこう思うわけ。いまの日本のやり方では、英語の歌のコピーから始めて、少しわかってきた連中が日本語に切りかえてる。ぼくはこれは逆だと思うわけ。英語はわかんないんだから。自分の言葉でスタートして、完全なものができたらそれをいい英語に直すのが本当じゃないの。いま英語で歌えばインターナショナルのものになるかといったら、ぼくなんか聞いてヒトッコトもわかんないような英語で歌ってる人も多いわけよ」

折田「ミッキーさんのおっしゃてること、すごくわかるんです。でも現実に日本語でいい詩を書く人がいないってことで、ぼくがプロデュースしたフード・ブレインのアルバムではボーカルなしでやっちゃったわけです」
(フード・ブレインはギターの陳信輝をリーダーに4人組。なお、キーボードはヒロ柳田(元フローラル、エイプリル・フール)。アルバム「晩餐」は日本のロック賞の4位。折田育造氏はポリドールで彼らを手がけたが、後にワーナーパイオニアに移籍。フラワー・トラベリン・バンドや内田裕也のアルバムをプロデュースする。)
 
ミッキー「まァ英語の発音がある程度日本人ふうになるのは許せるけど、歌詞を完全に理解して歌わない限り説得力が出ない。説得力のない音楽なんてやっても無駄よ。だからオリジナルをやらなきゃダメだというんだよね。イギリスから帰ってきたとき、どうしてもっと新しいことやんないの、っていろんなグループに聞いたら、新しいレコードが入ってこないっていうわけ。どうして自分の新しいものを作り出さないんだ、といってるのに、新しいレコードが手に入いんないから新しい曲がコピーできないって返事されて、何て話していいのかわかんなくなっちゃたのよ。それに、日本は一晩に50分のステージを4回やらなきゃなんない。ロンドンだったら一晩ワン・ステージだからオリジナルだけで充分もつけど、日本じゃオリジナルだけじゃ足りないわけ。そんなにオリジナルな曲どんどん作れないものね」
(討論の中身が変わりつつある。それにしても裕也は来ない。)
【参考文献・ミュージック・マガジン増刊スペシャル・エディション1 情報提供・佐藤正明氏】

(内田裕也氏の登場がないまま、ミュージシャンの生きざまといったことで討論が続く)
大滝「ぼくらは仕事ってコンサートだけで、ワン・ステージ40分くらいしかもらえないし、そのコンサートもせいぜい月に3、4回で多いほうだから、レパートリー10曲もないくらいだけど……。なにしろ新曲ふやすの、すごい大変なんです。去年1年かかって、やっと「はいからはくち」1曲しかできなかった」
中村「そんな仕事ぶりで食っていけますか」
大滝「一応生きてますけど……」
ミッキー「イギリスあたりでは音楽では食えなくて昼間はほかの仕事をやってるミュージシャンはすごく多いよ」
福田「その点日本のミュージシャンは恵まれすぎてるね。ほんのちょっと何かできればけっこういいカッコしてられるでしょう」
ミッキー「そう、そうなんだ」
福田「そしてちょっと下り坂になると、こんどは音楽をやめてアッサリとバーテンなんかになっちゃう。そんなことなら初めから音楽なんかやるなっていうんだ!」
と吐き捨て福田一郎は席を立つ。
 彼はこの日のTBSラジオ「パック・イン・ミュージック」のパーソナリティ(月曜深夜)を務めており中座せねばならなかった。というよりも、中座することができたのだった。
---あいつらを肯定したようにとられちまうだろうな。
とうよう宅のある渋谷からTBSのある赤坂へと向かうタクシーのなかで福田は、先ほどまでの討論を反芻する。
---ミッキーがあれほど、あいつらをべたぼめするとは思ってもみなかった。のせられて俺まで『日本語もロックのリズムに乗るということを証明してくれただけでもすごく大きい』などと言ってしまった。
 言ったてまえ、裕也と顔をあわせずに済んだだけでもよかった。
もっとも、裕也がいたら俺はあいつら褒めたりしなかったけど。なんにしろミッキーがわるい。
 もう裕也は、とうようの家に着いたんだろうか?
 同じころ、中村とうようは次号「ニューミュージックマガジン」の台割りとここまでの討論内容について考えていた。
---ここまでの討論でページが埋まるだろうか? いや、出席者の写真を並べたてても埋まらない。
 裕也が来ないと話にならない。裕也はどうしたんだ。早く来い。
折田育造は思った。
---俺は、言うべき事は言ってやった。裕也さんは俺と同じ意見を持っているはずだし、裕也さんが来てくれれば、こいつらをぎゃふんといわせられるはずだ。
松本隆は思っていた。
---べつに日本のロック賞が欲しくてアルバム作ったわけじゃないし、なんでこんな不毛の集いに僕が出なくちゃならないわけ。早く帰りたいよ。
大滝詠一は舌を出していた。
---「はいからはくち」の話をしたとき、メロディが「モビー・グレープ」のパクリだということを誰も指摘しなかった。こいつらインターナショナル云々いいながら、ホントはあんまり聴いてないんだ。 ここでひとつ「日本語は奥深い。「はいからはくち」は「ハイカラ白痴」と「肺から吐く血」の二重構造」と言ってみようか? いややめよう、松本にどやされるな…。

 待てど来ない内田裕也氏が出発したはずの某テレビ局に中村とうようが電話を入れようしたとき、ドアをノックする音が響いた。
【参考文献・ミュージック・マガジン増刊スペシャル・エディション1】


内田裕也氏ついに現る。
内田裕也が登場したとき、とうよう宅にはすでにしらけきった空気が漂っていた。
彼らは、しゃべり疲れ、待ち疲れていた。
 ここまでで、第2回日本のロック賞金賞受賞の「はっぴいえんど」にたいする評価はすでに終わっていた。
小倉エージを除けば、全員が自分たちを否定する立場に回るのではとの危惧を抱いていた松本、大滝にとって、内田裕也の不在は幸いであった。
 またミッキー・カーティス、福田一郎両氏が結果としてこれだけ自分たち寄りの発言を行ったことも意外だった。そしてロック賞を設立した手前、あからさまな否定の論は張れない中村とうようの立場にも救われた。
 すでに、裕也登場以前に雌雄は決していた! 勝利は日本語ロックに。
いや果してそうか? 内田裕也なら彼らを論破できるはずだ。なによりも日本語のロックを否定することだけを目的にここに登場した裕也なのだから。

 最初に論をはったのは、小倉エージだった。
小倉「内田さんのはっぴいえんどにたいする疑問点を聞かせてください」
内田「ウーン。「春よ来い」にしたってサ、よっぽど注意して聞かないと、言ってることがわかんないんだ。せっかく母国語で歌うんだから、もっとスッと入ってこなくちゃ」
中村「発音が不明瞭だっていうこと?」
内田「そうじゃなくてね、歌詞とメロディとリズムのバランスというかね、日本語とロックの結びつきに成功したといわれてるけど、そうは思わない」
中村「もちろん不充分な点は多いけど、日本のロック全体の水準から考えないと……」

---中村とうようのはっぴいえんど擁護の発言を期に、日頃たまった『ニューミュージック・マガジン』への裕也の怒りが爆発する。
内田「ぼくは去年の『ニューミュージック・マガジン』の日本のロックの1位が岡林で、今年ははっぴいえんどだと、そんなにURCのレコードがいいのか、われわれだって一生懸命やってんだ、と言いたくなるんだ」

ミッキー「そんなこと、いいじゃないか。誰もお前が一生懸命やってないなんて、言ってやしないんだよ。俺はジョン・メイオールのとき日劇で一週間聞いて一番乗ったのが岡林。お客さんのリアクションも一番あったしね」

---ミッキー・カーティスの予想もしない発言内容に、裕也の怒りは岡林へと。
内田「観客の受け取り方が、PYGだとヒッコメというし、岡林だとワーッてなるけど、移行したということではどっちも同じだと思うんだ。音楽的にも岡林なんて、そこらへんにいるアマチュアと変わんないと思うけどな」

ミッキー「岡林に音楽的なこといっても仕方ないよ。そんなこといやぁ、ボブ・ディランだって同じだよ。それでも説得力があるんだ。はっきり言って、いまのコンテンポラリー・ミュージックに、音楽的なものっていうのは、そんなに大事じゃないと思うわけ。それよりかむしろ、創造力というか、ひとつのものをどういうふうにエクスキュートするかということで決まると思うんだ。

---裕也、僚友ミッキーの発言に言葉を失う。
内田「ウーン……」

 内田裕也氏が興奮のあまり日本のロック賞の昨年度の金賞受賞者岡林信康に批判の対象を向けたのは戦略上のあやまりといえた。もっともそれは彼に戦略があればのことであるが…。
 彼には自分が登場すれば、それまでの討論がどうであれ松本、大滝、小倉を除く全員が自分になびくといった漠然とした予感があったはずだ。
 しかしまだ2年目の日本のロック・金賞受賞者、両者を否定されては、創設の「ニューミュージック・マガジン」の沽券にかかわる。編集長である中村とうよう氏自らが金賞受賞者を否定するはずもない。しかもこの討論は「ニューミュージック・マガジン」に掲載されるのだ。以後、編集長中村とうようは締めくくりの挨拶まで沈黙を守る。
      *   *   *   *   *  
松本「ぼくたちは岡林のバックをやってたけど、たしかに岡林は音楽的にはド素人もいいところでしょうね。それでも説得力というか、人をひきつけるところがあるわけですね」
---松本にとって岡林を論ずるのはたやすかった。発言のとおり、はっぴいえんどは岡林のバックバンドとして公演を重ねており、観衆を前にしての岡林の教祖的存在を目の当たりにしていた。また同時にはっぴいえんどは70年に岡林が発表したアルバム「見るまえに跳べ」のバックミュージシャンを務めており、岡林の音楽的素養を完全に見抜いていた。松本にとって岡林に関しての話題ならば尽きることはなかった。しかし裕也の矛先は、はっぴいえんどへ向けられる。
内田「はっぴいえんどたちは、ぼくんとこ(フラワー・トラベリン・バンド)とかミッキーやモップスのレコードについてどう思うの。端的にいうべきだと思うよ」
---これは裕也にとって満を持した質問だった。彼らのほうから日本語ロックを批判することはあっても、日本語ロックの側から批判されることは全くなかった。裕也ははっぴいえんどたちの発言を待つ。もしも彼らが英語で歌うことや、オリジナルをコピーして歌うことを全否定するのであれば流血も覚悟……!?
松本「ぼくたちは、人のバンドが英語で歌おうと日本語で歌おうとかまわないと思うし、音楽についても趣味の問題だから…」
---(趣味の問題だと、俺が全生命を賭けて英語で歌うことを趣味の問題だと……!)裕也は松本の発言が信じられなかった。松本は英語で歌うことを否定するならまだしも無視したのだ。
さらに大滝が続ける。
大滝「ぼくもハード・ロックを聞かなくなって大分たつし、自分の趣味にコリ固まって偏屈になってるもんで…」
   *    *    *   
---後に言葉を繋ぐものはいなかった。
 裕也は誰にも相手にされなかった。出席者全員から総好かんを食わせれたような形勢で論争は終結した。裕也は出席者を一人ひとり眺めまわし呪文のように反芻する。(なにが日本語のロックだ。ちょっと、メロディを変え、日本語の詩をつければ、それがオリジナリティなのか?)彼はここに決意した。日本語ロック一派を完全に粉砕するのが俺の使命だと。
 そしてこれが内田裕也一派と日本語ロック一派が拮抗しあいハイエンドな論争を展開したと語り継がれる日本語ロック論争の全貌である。おそらくは裕也の側から流布され後日伝説とまで謳われた日本語ロック論争は、実は裕也の一方的な敗北で終わったのだった。
  *   *   *   *
中村「どうもきょうはあまり座談会らしくまとまんなかったけど、かえってザックバランな話が出たかもしれないね。これから裕也とミッキーはTBSの福田さんの番組に出ることになってるんで、ぼくもいっしょに行きましょう」
 *   *   *   *
 裕也、ミッキー、とうようを乗せたタクシーが深夜を走る。とうようが行き先を告げたきり3人は沈黙している。重苦しい車内の雰囲気をなごませようと運転手がラジオのスイッチを入れ、彼らが下車をするTBSにダイヤルを合わせた。
 ……それでは次に、日本のロック賞金賞に輝いた『はっぴいえんど』の曲をかけよう。彼らのアルバムはカッティングはいまいちだけれど、日本語もロックのリズムに乗るということを証明してくれただけでもすごく大きいんだ。曲は……
 後部座席の裕也が身を乗り出しツマミをひねり潰すかのようにしてラジオのスイッチを切った。 (完)

【参考文献・ミュージック・マガジン増刊スペシャル・エディション1】 (おことわり・実録と断りながら実は一部はフィクションです)


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